朝から快晴。今日も暑くなる。といってもここのところほとんど家から出ていない。運動しなければと思いつつも、出歩くと翌日から2、3日の間、膝や腿や腰の痛みが増す。その繰り返しが嫌になって動きたくなくなる。簡単だからと始めたスクワットもそんなわけでサボりがち。
どうしていいかわからず、誰かに身体を預けてしまいたい気持ちになるが、指導してくれる人はいない……いや、探せばいるのかもしれないが、入院中、リハビリを2週間くらいやっていたとき、リハビリの先生が筋肉が切除されているのでこれ以上の回復は難しいし、他の病院でリハビリを続けてもそれほど変わらないと言われた。それに加え放射線による副作用で筋肉の繊維化(筋肉が固くなる)も起きていてそれも痛む。これも治ることはないと主治医に言われている。……なので自分で考えるしかないのだが。
やる気が起きないのもそんなことのストレスによるところも大きい。現実を変えることはできないのだから、この現実を素直に受け入れてできることをやるしかないとわかっていながら、身体が自由だった頃を思い浮かべては以前はもっと動けたのにと悔やんでしまう……気が弱すぎる。体の不具合は手術後の後遺症ばかりでなく老化もあるのだろう。後遺症で老化が加速してるところもある気がするが、そんなことを考えてしまうところも気の弱さ。
考え出すとさまざまな不安が押し寄せてくる。仕事だってそろそろ終わりに近づいている気がするし、支出ばかりが膨れ上がって収入は減っていくばかりだ。なんのアイデアも可能性もみえない。子どもたち(といっても二人とも大人だが)の闊達な活動を見るにつけ、自分の老いを嫌というほど感じさせられる。それは人の普遍的な人生だとも思うが自分がその身になってみると辛さばかりが際立って感じられる。何か楽しみを見つけられないものか…。
今思えばデザインなんてものがそれほど好きだったわけではない。それでも戸田ツトムという稀有な異端なデザイナーの存在が、デザインを思考しつづけることを支えてくれていた。その人ももういない。その周辺の才能豊かな人々も次々と亡くなっていき、もはやデザインすること思考することになんの魅力も感じなくなった。80年代の、あの圧倒的なデザインの時代はもうどこにもない。あれは夢だったのだ。あの圧倒的なクリエーターたちはその夢に帰っていってしまったのだろう。夢と共に消え去ったのだろう。
デザインの夢の時代を作り上げた杉浦康平氏はまだご健在のようだが、90歳を越えられてデザイナーとして活動されているのかどうかはわからない。かつてはどんなデザインであろうともそのずっと先の方には杉浦康平の影があった。それが見えないデザインは稚拙に感じられた。今はもうその影が見え隠れするデザインはほとんど見かけない(僕が知らないだけがもしれないが)。デザインに精度がない。
ブックデザインは杉浦康平とイコールだった。その発展系や異端や亜流で本に関わるデザインの世界は出来上がっていた。それは目指すべき地平でもあった。だかもうそんな世界はない。蜃気楼のように。
アナログシンセサイザーが面白い。実際流行っているようだ。亡くなる直前の坂本龍一もアナログシンセをいじっていたように思う。自分には使えないがそこには音の自由と可能性がまだまだ広がっているようだ。若い頃、音楽はデザインの一歩先を進んでいるから音楽の動向をチェックしていればこれからのデザインの行方がわかると考えていた。今もそれは変わらない気がする。となればデザインにとってのアナログシンセとは何か。手仕事回帰ではないだろう。
思い浮かべるのは初期のMacintosh。Macが正式名称になる前のAppleコンピュータ。画像に階調はなく白と黒のドットだけで文字や絵や図像を作っていた時代。80年代後半から90年代の入口までの、ほんのわずかな時間に存在した「未来の風景」に感動したものだ。そんな感動は最新のMacにもiPhoneにも無い。ただ便利になっているだけ。 未来を見せる道具ではなくただの家電に成り下がった。
未来が残り少なくなった者にとって未来というキーワードはどれほどの意味を持つのか。消えていく者の使命、責任として考えるべきなのか、よくわからない。未来は未来を生き、未来を作っていく者の考えこそが重要なのではないだろうか。老いた者の考えが未来にどれほど通用するのかわからない。
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